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書評「土地と財産で読み解く日本史」

これまで読んだ日本史本で一番分かりやすかったかもしれません。まさに日本史で「土地」が重要なキーワードであることを実感しました。

 

律令国

・645年の「大化の改新」で田畑の私有が禁止に。日本史上唯一の土地私的所有を禁止した政権。背景に唐の興隆と朝鮮半島情勢。軍備増強の要請のため中央集権国家を作った。

・班田収授の法は、豪族から土地を取り上げ、農民に支給する一種の「農地解放」。農機具も給付もしくは貸与。同一型の農機具が奈良時代の遺跡から大量に発掘。

・663年の「白村江の戦い」では、千艘の船・数万~10万人を朝鮮半島に派遣。「白村江の戦い」により唐の日本侵攻は防げたが、朝鮮半島からの鉄鉱石輸入が途絶える。砂鉄を原料とした「たたら製鉄」の発展。

荘園の普及、豪族の台頭

天然痘の流行、自然災害などで財源不足に。723年の「三世一身の法」で3世代まで開墾田の私有を容認。743年の「墾田永年私財法」で開墾田の永久私有が可能に。「土地売券 」なる土地取引の証書が見られるようになる。農民や浮浪人を動員して開墾出来る豪族の台頭。

・774年~822年までの「蝦夷地問題」で、蝦夷地の人々は主に関東に強制移住。関東の治安が悪化し、豪族たちが自衛のために武装集団化。

・902年には「荘園整理令」が出されるが、戸籍作成や班田収授が全国規模で行われることは少なくなり、私的農地である「荘園」は爆発的拡大。

・その地域から選出された「郡司」が世襲化で勢力を拡大したり、朝廷から派遣された国司が豪族化するなどして、「荘園」を現地で管理する「在地領主」が形成。そして、「在地領主」が土地所有権の保護のために「武家」に。「武家」は土地を占有していった。

平清盛は中央集権制度を維持しようとし、源頼朝は中央集権制度ではなく各地の武家が土地管理をする制度を志向した。

後白河上皇平清盛の牽制のために、朝廷による統治権源頼朝が率いる武家集団へ委譲することを容認。

武家集団政権の誕生

鎌倉幕府は「関東御領」など直轄管理地からの税と貿易による関税が主な財源。日本各地では各地の領主が徴税権、行政権を有す。幕府は、仲裁的な役割。

御家人を動員した際の褒賞としての土地が不足していたため、鎌倉幕府の兵の動員力は乏しかった。13世紀頃か各地で「悪党」が出現し、彼らを組織化した後醍醐天皇により鎌倉幕府は倒幕。

南北朝時代南朝武家がつかないように土地を給付した影響もあり、室町幕府はもっと土地が不足していた。直轄管理地である「公方御料所」は200万石程度。鎌倉幕府が果たしていた武家同士の争いを仲裁する機能すら果たせず、1467~1477年の「応仁の乱」へ。

・農民に対して、荘園の持ち主である荘官への年貢、室町幕府から派遣された守護への段銭、新興勢力である「加地子名主」への年貢など無駄な税負担が増えていた。

・「墾田永年私財法」の荘園の広さ制限が適用されていなかった寺社は各地で大規模な荘園を運営しており、勢力を拡大していた。また、寺社は金貸しになるなどして商工業への影響力も強かった。

織田信長の改革

織田信長は、各地の土地の権利関係が曖昧になり徴税や行政がスムーズに行われなくなったこと、寺社が異常な勢力拡大をしていること、に対する改革を実施した。慢性的な土地不足が政権の不安定につながるので、統治機構を中央集権国家を志向した。

・1568年には開墾地の年貢率を30%程度にするように定めたらしい。また、寺社焼き討ち、楽市楽座の設置も行なった。最盛期には400~500万石の領地があったが、武家への褒賞として土地を給付しても頻繁に「国替え」を行なった。

・秀吉は信長の土地政策を踏襲したが、200万石程度の直轄領は保有した。秀吉は、仲間にたくさん土地を与える「大盤振る舞い」で立身出世したが、直轄領は少なかった。

・1592年の朝鮮征伐も新たに領地を獲得することで土地不足を解消する側面があった。

徳川家康の別解

徳川家康は、直轄領だけで400万石、徳川家勢力で800万石。金山、銀山、堺の港も保有大坂の陣では20万人の動員。貨幣の鋳造権も有す。日本史上最大の資産家と言っても良い。

・家康には有名な合戦が少ないが、他者同士が争った後の棚からぼた餅で勢力を拡大。「本能寺の変」でも甲斐や信濃を獲得。家康は、信長・秀吉とは違い中央集権国家志向ではなく、自らの直轄領の拡大志向だった。徳川家代々の家臣が多くいたことだけでなく、他者同士の争いに上手に介入するため、褒賞も少なくてすんだ。

・徳川家が圧倒的な勢力を築くことが、土地不足による政権の不安定問題を解消した。

・江戸時代の全国の収穫量は4600万石程度。年貢は30%程度。「割地」で農民同士が定期的に土地交換するなど、土地は農村共有財産という意識があったと思われる。「村請制」で村落単位で年貢が決まっていた。農地の売買は禁止、質入れしても元本を返せば土地を取り戻せた。結果として、一部の農民への富の集積は起こりにくかった。

明治維新による土地改革

明治新政府は、800万石程度の直轄領を持った。1869年の「版籍奉還」で各藩が自主的に土地を明治新政府に返還。「地租改正」で、多くの農地の所有権が農民に与えられた(このとき、各藩に農地の管理権を与えるようなことも出来たはずだがしなかった)。実質的な小作地は31%。

・明治5年の1872年に壬申地券の発行。土地の売買が可能に。農作物も自由に選べるようになった。収穫量は40年で2倍程度に。

明治6年の新旧公債証書発行条例は事実上の徳政令で、江戸時代の商人の没落をもたらした。

・貿易から財閥の台頭。昭和5年には215万人のサラリーマン(全就業者は2960万人)。今の西荻付近で60坪の土地に30坪の建物で4000円。平均年収が800円なので、5年の年収で買えた。住宅ローンは10~15年。大正10年の住宅組合法で7人以上の住宅組合に、20年で4%の金利で府県から借りることも出来た。

・一方で、昭和4年東京市の調査では40万人近い「細民」が貧民街に住んでいた。

戦後の土地改革

・戦後の農地改革では、46%の小作地を国が買い取り、小作人に安く販売した。193万ヘクタールを130億円で買い取り40億円で売却した。インフレもあり小作人はタダ同然で土地を入手した。

・バブル期には米国から、日本の消費の弱さは住宅が狭く貧弱であること、そしてその背景に都心部の土地不足があるという観点から、固定資産税の低さや都心部の農地の税率の低さが指摘されていた。だが、日本政府は銀行融資の「総量規制」を選択した。