ロシアとの「 北方領土」問題が進展しそうだ。どのような方向性で進展するにせよ、現実的な解決策を模索する上で必ず通らなければならない問題は「今住んでいる住民たちをどうするか」である。
小熊英二氏の『私たちはいまどこにいるのか』に【「北方領土」論議に欠けているもの】という1999年の興味深い論考があったのでメモをしておこう。
もし四島が日本領土となった場合、現在の住民たち約2万人は「ロシア系日本人」として日本人として編入される可能性が高い。その際に日本は幾つかの政治課題を抱え込むことになる。日本語を話せない彼らの「日本語教育」をどのようにして提供するのか、「日本語」話者が高等教育・仕事などで圧倒的に有利ななか非平等感を感じさせないか、人数としては少ない彼らの意見を国政にどのように反映するのか等がある。恐らくこれらの問題の解決策としては、経済発展などで住民を懐柔する政治手段を取ることになるのだろうが、それは可能だろうか。
住民の間で不満が溜るならば、それは皮肉にも日本からの分離独立運動となってしまうのではないか。
もしくはそうした面倒な問題を避けるために、「住民の移動」を積極的に支援する政策を採用することも出来るかもしれないが、日本が台湾を編入したときにそうした政策で実際に日本外に移動した住民は1%にも満たなかったという。
つまり、現実的になるならば、移動したがらない住民に日本国はどのように対応するのかを考えなければならないのだ。その際に日本国にはどのような選択肢があるのだろうか。また、「日本人」や「日本国民」の現在の社会的共通了解は変更を求められるのであろうか。つまり、現在の日本社会はスムーズに彼らを受け入れられるのだろうか?
小熊氏の『単一民族神話の起源』では、「日本人」が「単一民族」であるという感覚や社会的共通了解は戦後に作られたものであり、戦前までは寧ろ「日本人」は「多民族」であるということが社会的共通了解であったことを明確に斬新に示している。また、そうした戦前の社会的共通了解が、同時に国家の海外展開を支える基盤となっていたとしている。そのような意味で、「日本人」や「日本国民」などの概念は流動的であり政治により定義される側面がありつつ、同時に国家の様々な政策の方向性を左右するという相互作用があると言える。
朝鮮半島やブラジルなどにルーツを持つ「日本国民」を社会に受け入れるのに必ずしも「単一民族国家」日本は成功していないと思うが、そのようななか新たにロシア系日本人が流入することにこの社会はどのような反応を示すのだろうか。社会にマイノリティが増え、更なる混乱もしくは混乱の印象が増殖するのだろうか。もしくは敢えて「多民族国家」日本という概念体系を再構築し社会的共通了解とするのだろうか。もしそうなるならば日本国の対内・対外政策は現在とは根本的に異なるものになっているのかもしれない。
「北方領土」問題を本気で解決する心づもりがあるならば、現実的に避けて通れない「現住民」の処遇という観点から、「現住民」により豊かな生活を提供する日本国をアピールしてみたらどうだろうか。戦後、日本政府を対外的に代表する政治家・外交官が多民族を説得・懐柔している場面を見たこともなく、想像も出来ないが、それが日本社会で内側に繁栄していくための「政治」に求められた資質ではないからだろう。企業の海外展開・国際制度構築に関わる重要性・住民のゆるやかな多民族化などから「政治」は少しずつ非日本国民と日本国民の利害の調整に向かう気がしないでもないが、意外に今までどおり内側に繁栄していくことも可能なのかもしれない。つまり、ロシア国の一地域であるよりも日本国に編入された方が利益になるとの「現住民」への説得を可能にするには日本社会自体が意識を大きく変化させ、教育・仕事・社会のあり方を大きく変えなければならない。というよりも、日本社会自体を変化させるために「北方領土」問題を解決する?
「北方領土」問題が具体的に解決過程に進行していく上で、国民国家が周辺地域をどう組み込むかということで、中心のアイデンティティが確立される過程を見ることができるかもしれない。近代以降の戦争が周辺地域を巡り始まることが多かったのも、それが資源や利権に関わるからであるというよりも、アイデンティティに関わるものであったからかもしれない。