全球観察

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書評『郊外住宅地の系譜』

戦前の東京の郊外住宅地がこんなにもたくさんあり、こんなにも素敵であるとは知りませんでした(戦後の郊外住宅地とは対照的です)。一方で、そうした郊外住宅地の魅力は必ずしも戦後そして今には引き継がれませんでした。もちろんこれらの住宅地は依然として資産性は高いと思われますが、それは1904年に作られたレッチワース1924年に作られたサニーサイドガーデン、1928年に作られたラドバーン が過去の歴史を住宅地として蓄積しているのを見るとやや残念に感じます。

 

阿部様の造った学者町 西片町

・福山藩の阿部家が6万坪の屋敷で賃貸経営

・明治5年に旧士族長屋の再利用のために「貸長屋許可願」を東京府に提出

・当初住民は旧藩士や同郷人

明治10年頃から道路建設

・借り主があまりいなかったので、神社を誘致したが失敗

・学者町として成長

・知的環境を重視したコミュニティー形成

・戦後の財産税で多くの土地を譲渡・物納

・阿部家の西洋館は国土計画興業が購入し「グリーンホテル」として米軍住宅に

 

神田三崎町

音羽町の大正期における借家経営

・敷地内の住民の多層性

・多様な住居ニーズへの対応

・戦前の借家文化は案外豊かだった?

 

東京の軽井沢…桜新町

蒲田の「吾等が村」―黒沢貞次郎の工場村

日暮里渡辺町消滅

大和郷住宅地の開発

柳沢吉保が築いた「六義園」および付近の12万坪を三菱財閥の岩崎家が購入

1921年頃に5万坪程度の住宅地開発の計画が立ち上がる。背景に富豪の大土地所有への批判

佐野利器が都市設計

・東大教授などの学者が多く購入

・岩崎家と交渉する住民団体が立ち上がり、住環境まわりの厳しい自主規制

関東大震災後に自主規制を破る住民が現れ、新しく自治会を作った

・クラブハウスや幼稚園などのコミュニティ活動は盛んだったが、学校・商業などを含めたまちづくりがされたわけではなかった

・戦災で大部分が焼失。多様な住宅がある極めて個性的な住宅街だった。

堤康次郎の住宅地経営第1号―目白文化村

・3万3000坪

・1909年に山手線目白駅、1910年に山手線高田馬場駅開通。

1920年に住宅地経営が志向して東京郊外住宅株式会社が設立される

・東京郊外住宅が開発して、箱根土地が販売の役割?

・1922年から分譲開始。1922年の上野での住宅展覧会が「文化村住宅展」として盛況したのを踏まえて、「文化村」の名称を使用。

・統一した街路計画が無い。一部注文建売

1924年の第3回目の分譲時以降は堤康次郎氏はあまり力を入れなくなった?

・戦災と環状七号線による分断で街は大きく変質した

 

洗足田園都市は消えたか

田園都市株式会社の分譲。1922年に第一回売出し。8万4500坪、574区画。

・職住分離

・新中間層。会社重役、会社員、官僚、軍人。

・土地区画の分譲。家屋建設はあめりか屋 などと自分で契約? 建築協定

・土地の住宅ローン。頭金2割、残金は3~10年返済

昭和14年には既に街のあり方に「絶望」の声

・イギリスのガーデンシティは職住近接なのに、なぜ日本の田園都市は職住分離? 結局単なる郊外の住宅地になってしまった?

・世代交代とともに住宅の狭小化

田園調布誕生記

・塀を作らず低い生け垣とし、外から庭が見えるようにする

「城南田園住宅組合」住宅地について

1924年2月8日設立。組合員42人。山形県出身者が多数。医師や会社経営者。

・2万1000坪、44区画。一区画は180~1200坪。12人の地主からの借地。

・東京で理想の故郷を作る

・家庭菜園

園都市の理想像を求めて―箱根土地の大泉・小平・国立の郊外住宅地開発

・土地買収代金は、手付金10%で残金はその区画が売れたら地主に払う契約。戦後にトラブル。地域の溝を深めた。

成城・玉川学園住宅地

・成城は37万坪程度(借地含む)

・学園周辺の土地を分譲。小田急とも駅設置で交渉

・当初は井戸水。だがなかなか水がなかなか出ない。勧業銀行から借り入れ日本水道から給水を受ける。

・電気も自家発電を志向したが、需要増を見越して京王電鉄系列の会社が敷設。

・「朝日住宅」というモデルハウス。多くの文化人が住むようになる。

・戦災、相続による土地区画の狭小化、1961年の駅を貫く南北道路

・玉川学園は30万坪。20万坪を分譲。

・土地取得資金は父兄から。耕作区画整理組合を設立して東京都から補助金

・理想的な教育コミュニテイーとは?

準戦時期の住宅地開発…「健康住宅地・常盤台」のまちづくり

東武鉄道が主体

・8万坪

・同時代の田園都市より敷地規模が小さく、中堅サラリーマン層を意識(敷地面積はそれでも100坪程度が多い)。

・文書化されていないが建築規制あり

・電気ガス水道のインフラ、下水の暗渠化、2000坪の公園、駅前や街路の緑地などをもとに「健康住宅地」として売り出す

・「健康」を強調したマーケティング。1930年頃からの戦時体制の住民願望の反映? 現代の「ウェルビーイング」を強調した建築の先駆け?

・戦災被害は免れ、比較的今も当時の住宅が残っている

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