『新疆ウイグル自治区 中国共産党支配の70年』が面白かったので、もう少し詳しく知りたかったので読んでみました。
概要
結論としては、ソビエトではそれぞれの共和国で現地の(少数)民族出身者が政府や党の幹部の60~80%程度のレンジで、中華人民共和国では20~40%程度のレンジだった、その違いは両国の国家理念の差を示している(p230)、というようなところでしょうか。
比較対象はカザフ共和国と新疆ウイグル自治区というもともとはトルキスタンという歴史的な一体性を持っていた地域だったので、特にその差異が分かりやすいとのことです(p8)。また、民族構成でいうとカザフ共和国でカザフ人はそこまで多くなく、新疆ウイグル自治区ではウイグル人がかなり多いのに、政府や党の幹部の民族構成がそれを反映していないならば、何らかの意図があるとも考えられます(p11)。なお、その差異は他のソビエトの共和国/中華人民共和国の自治区に一般化出来る(p216)ことも示唆されています。
「民族」というキーワードと利益配分
興味深かったのは、カザフ共和国の当初のリーダー(ユダヤ人)と現地の幹部が対立したのは土地の分配方法だった(p39)ことでしょうか。マルクスが農村についてどのようなことを言っていたのかは良くわかりませせんが、それはまさに「穀物生産量の増加」という下部構造の議論からの要請に見えました。自分に有利な分配になるように「民族」とか「階級」とかの言葉を使っていたりしている印象もありました。この議論にソビエトの国家の理念とかあるべき姿がどこまで反映されていたのか良く分かりませんでした。ひとまず日本の区画整理事業とはいろいろ概念が違いそうです。
民族的な要因に配慮した分配方法を提案する現地の幹部ではなくて、外部のリーダーが提唱した階級的な要因に配慮した分配方法が採用され、現地の幹部は失脚しました。とはいえ、失脚した幹部の代わりにまた別の幹部が現地から採用され、政府や党の幹部で少数民族が占める割合に大きな変化は生まれませんでした(p45)。ただ、結局「穀物生産量の増加」はなされず、方針転換することになりました(p68)。その際に失脚した幹部が復職することはなかったようです。
また、将来の国際連合の加盟国を増やす観点から、それぞれの共和国に外交権が与えられるなどの動きもありました(p101)。それは結果として「民族」意識を形成した可能性もあります。
中国では「民族」で利益配分を要求するような動きはなかったように見受けられました。ただ、ウイグルという名前を残すことだけは毛沢東が現地の幹部(セイプディン・エズィズィ)に譲歩しました(p129)。
「安全保障」と「民族」
1937年頃から第二次世界大戦が予感されると、ソビエト内部では「安全保障」の観点からいろいろ動き(というか粛清)あったようです。カザフ共和国ではリーダーはロシア系になったものの、幹部層で現地の少数民族出身者が直ちに減ることはなくゆるやかに減っていったようです(p91)。新しい現地の少数民族出身者には戦後にリーダー層になるような人もいました(p99)。この頃に、ロシア語教育も強化されたようです(p97)。
中国では、対ソビエトの「安全保障」の観点から、現地の幹部が文革で失脚しなかった(p190)、寧ろ昇進した(p205)のも印象的でした。「国家分裂」阻止なのか分からないですが、ある時期から少数民族自治区への漢民族の支配を強める以外の議論がほとんどなくなってしまっているようにも見受けられました(p149,p155)。
疑問点
・そもそもスターリンがグルジア出身者であり、そうした民族的な背景にこだわらない人事制度がソビエトにはあったのではないか。
・人事はどのようにして決まるのか。中央からの一方的な通知なのか。それともいろいろな折衝があるものなのか。
・現地出身のリーダーや幹部に決定権があることを示唆するような重要な意思決定事例はあるか。
・カザフ人は「社会主義革命」にどのような夢を抱いていたのか。
・中国共産党の「中華民族」の強調はいつから始まっているのか。また、中国共産党の「中華民族」の概念には敵は必要なのか。
・中国の歴史で漢民族の政権で周辺地域の少数民族に大幅な権限を事後的に与えた事例はあるか。
おわりに
少数民族出身者が政府や党の幹部で何割を占めていたか、という定量的な分析手法が興味深かったです。これを大日本帝国でやったらどうなるのでしょう。多分中華人民共和国の漢民族支配なんかと比較にならないぐらい日本人ばかりな気がします。逆に考えるならば、日本人が異民族と接するのは想像以上に下手で、そうした自分たちの実力を日本に本社を置く多国籍企業を運営する日本人は知っておくべきなのでしょう。