全球観察

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書評『都市空間の明治維新』

前回は大阪の町人街が明治維新以降どのように変容したかに関する本を読みましたが、今回は東京の武家街に関する本です。

 

まず江戸末期から明治初期までの土地所有権の変動の分析の際に資料が少なくがここまで苦戦するものなのだということにビックリしました。「明治維新」というものも具体的な資料ベースではなくイメージで語られてきたことが多いのでしょう。

 

武家地は江戸の7割程度。明治6年の段階で102万坪が農地に転換(p158)

・京都は因習のはこびる地域として新しい首都としては敬遠された

・全ての武家屋敷は新政府に一度没収された

・東京では「郭内」「郭外」の設定が3回変更された

・旧大名は「郭外」に紆余曲折ののち一つ私邸を持つことを許された。地租改正による税負担もあり、私邸の一部を貸地にするなどの賃貸経営へ進出した(阿部家の西片町など)

・京都の公家が東京の「郭内」に移動する際は、京都の屋敷と東京の旧旗本屋敷の等価交換で行われた

・地方都市の旧城下町も基本的に武家屋敷を没収して「郭内」「郭外」を設定したのちに新しい所有者に割り当てられたと思われる

・明治5年の煉瓦街計画は大蔵省主導。東京府との対立。地租改正の速やかな実施のために中止となった

・場末の町人町を東京の中心に移転する事業が行われた。その過程で移転できなかった「貧民」がある種のスラム街を形成した(p165)。

戊辰戦争の功労者である町人が「養育所」の経営や「無戸籍者」の引取り業などを期待されて大規模な薩摩藩武家屋敷の払い下げを受けた事例があった

・2つの広場に面していた御徒町の和泉橋通りの武家屋敷は町人が違法に購入し占有した。それを新政府は追認した(p234)。

 

 

p138で唐突に大隈重信がある土地の所有者であると記載されていましたが、新政府の土地の払い下げはどのような手続きだったのか、汚職などはあったのか、なども気になりました。

旧大名に払い下げられた土地は何回か再没収されていた気はしますが、民間に払い下げられた土地を新政府が再没収するのは結構難しかったのでしょうか(なぜ新政府はその後の都市計画実行時の用地買収に苦戦したのでしょうか)

 

各地方都市は同時期に具体的にどのような変化があったのか気になります。各地の大名は結局江戸で生まれて育った?ので各地方都市よりは江戸・東京に愛着があったりしたんですかね。そういう感情的なところも首都としての東京の確立に影響がある気がしました。