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全球観察

全世界の様々なトレンドを記録していきます。

井上章一『パンツが見える』書評

私達の羞恥心が時代によって異なっていたこと、人々の価値観が移ろいやすく絶対的でないこと、そのようなことをこの本は示している。

現代の感覚とは相当異なるが、昭和初期までは日本の女性はパンツを履いておらず、また履きたがっていなかった。同時に恥部が見えてしまうことは、そこまで恥ずかしいと感じていなかった。そこからパンツを履くに至るまで、更にはパンツが見られることが恥ずかしいという感覚になるまでを資料を用いながら説得的に説明している。

 

①パンツを履かない 〜昭和初期

和装がまだ一般的であった時代にパンツを履くことは一般的でなかった。その理由は2つあり、恥部が見えてしまうことが羞恥の対象でなかったことと当時のパンツが履きにくかったということだ。

 

②パンツを履く 昭和初期〜

 パンツを履く文化は「貞操」を守るという観点や洋装の流行によるパンツを履くという流儀から少し普及した。ちなみに、洋装の普及には戦時下のもんぺに依るところもあるようだ。この頃、ワコールなどの下着会社が生まれた。

また、パンツは性的サービスを提供する女性たちに一種の性的サービスとして履かれるようになった。例えば、この頃からパンツをチラリと見せたりする店があったようだが、パンツがあったから「パンチラ喫茶」があったというよりは「パンチラ喫茶」があったからパンツを履くようになった、という可能性もあるように思えた。

こうした性風俗産業の女性のスタイルが社会一般の女性のスタイルに影響を与えた流れをこの本では重視している。女性がいつからか「女性」化への心理に駆られ始め、その際のモデルとしてそうした産業で働く女性の姿があったのだろう。 

そうしたパンツはどこで売っていたのだろうか?普及初期段階では小さな洋装店などにしかなかったようだが、1950年代になると百貨店で「下着ショー」が開催されたり売り場面積も増えるなどした。やはりこの当時は文化の発信地は百貨店だったのだろう。(鹿島茂『デパートを発明した夫婦』書評 - 全球観察)

そうしたパンツも、普及初期段階では単なる布や浴衣の切れ端であったりしたが、徐々に形も細工されるようになり色とりどりになってきた。

 

③パンツが羞恥の対象 1970年~

パンチラといえばマリリン・モンローの『七年目の浮気』(1955年)が有名であり、そうした男性視点の存在を知ったことが羞恥心を形成したように考える論者もいるがこの本ではそうした影響を限定的に捉える。

寧ろ重要視するのは、女性自身の自己愛である

例えば、1972年に発表された田辺聖子の『風穴』にはパンツでなくスリップであるが、以下のような言葉がある

「黒のスリップを着けて鏡にうつしてみる。これは買っただけで、まだ着ていない。煽情的な気がして、着ているだけで、マリリン・モンローみたいな気分になる」

もしくは1959年の『婦人公論』8月臨時号にある次のような記述である。

「美しい曲線を作り出すブラジャーにヴィナスの女性美を夢み、ヒラヒラとゆれるレースの沢山ついたスリップにシンデレラのロマンティズムを、七色のパンティにそこはかとなきオイロケをたくす。また、上着よりも下着にこるという粋なぜいたくを想い、ただ一人月光の下で美しい下着にナルシズムを満足させる」

こうした表現から女性たちが「女性」的であろうとする心性をいつからか持ち始め、そうした「女性」性の代表であるような娼婦たちであるような幻想に浸るようになった。パンツを見られることは、そうした幻想に浸っている「自己」を見られることであり恥ずかしいと思う気持ち「羞恥心」が生まれた。

男性が知っている女性用ブランドの数は限られており、更に女性にブランドを指定する人は相当少ないのでは、と思うので女性が下着を買う心理とは男性視点ではなく女性視点もしくは自己愛という側面は相当程度あるのだろう。パンツのブランドがどのように確立されたのか、どのような広告を打ちどのような心理に訴えかけていたのか、そうした点を見ることでパンツが羞恥の対象となる過程をより綿密に検証できるのではないか、と思った。

 

この本では様々な興味深い疑問が生まれたので幾つかメモしておこう。

  1. 植民地であった台湾・韓国では「パンツ」や「羞恥心」はどのような歴史をたどったのか?
  2. 男性がふんどしからパンツを履くようになったきっかけは女性視点の存在なのであろうか?
  3. 男性はふんどしを履いていたので、間違えて恥部が見えたときに羞恥心を感じていたのだろうか?ふんどしにも現代の男性用下着の用に多様な種類・ブランドがあったのだろうか?
  4. そもそも昭和初期以前の社会に「羞恥心」がどれほどあったのか?「自己愛」と「羞恥心」が裏表の関係ならば、「自己」が確立していなかった時代に「羞恥心」もあまりなかったのではないか?「羞恥心」の発展、は「私有財産制」を基礎とする「資本主義経済」の発展とは関係あるだろうか?
  5. パンツを履くことは近代化指標として取り入れることが出来るだろうか?例えば、エマニュエル・トッドの『帝国以後』では社会の識字率出生率が大きく変動する時にその社会内で大変動が起こると述べている。近年増加している「テロ行為」はそうした地域での識字率上昇・出生率低下というトレンドの必然的過程であり、時間とともに解決する問題であるとしている。そうした「テロ行為」を働く人達はパンツを履いているのか?もし先祖の文化体系に「パンツ」が存在しないならば、パンツを履くという行為は近代的心性を表現しているのではないか?そうした地域のニュースは複雑で何が起こっているのか分からなくなるが、「パンツ」の有無で社会や政治の方向性が見えるのならば誰かが研究するべきだろう。

もしあなたが投資家で新興国の経済発展を重要視しているならば、表面に見えるデータだけでなく「パンツ」もしっかり見たほうが良いかもしれない。

 

パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)

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帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

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