全球観察

全世界の様々なトレンドを記録していきます。

その行為で、結局世界はどうなるのか

米国のオバマ大統領の広島での演説はyoutubeで見たり原文を見たり確認のために和訳を見たりしたときは素晴らしいなと感じた。

「私たちは何故ここに来るのか」。ただ、冷静に考えると米国のオバマ大統領が広島に来た理由が意外に良く分からない。

 

日米の外交関係や同盟関係は強固なものになった気がするが、世界の安全保障上への影響はあまりない気がする。

 

そもそも何故この日程なのか?サミットのついで感が少しあるが、8/6に来たほうが良かったのでは?それは謝罪につながるから避けたのだろうか?もし強いメッセージを発したいのならば広島に来るためだけに日本に来ても良かったのでは?8/6に広島訪問は次の政治イベントして保持?

 

レトリックは素晴らしいが、結局どのようなメッセージを伝えたかったのか?

原子分裂を始めとする科学の発展は人類を救済する側面と破壊する側面があるので私たちは科学の使用に於いて高い倫理性をもつ必要があるという感じなのかな。

こういう高邁な演説では必要ないのかもしれないけれど、もう少し具体性があっても良かったかもしれない。核保有国に呼びかけるなど。最近核使用を仄めかした国々の不安を和らげても良かったかもしれない。結局世界のリーダーは皆平和を祈っていると思うので、原爆資料館に来るまでもなく。

何故核軍縮やその他の軍事的脅威がなくならないのか、に関して現在世界で一番情報を持つ立場にある方から率直な意見を聞きたかった。

訪問直前のthe economist誌によると北朝鮮の核を巡る不確実性が高まっているそうだが、訪問後にこの記事を読んでももうオバマ大統領が居るから大丈夫、という感じにはならなかった。

 

謝罪に関して。今後も核を使用する可能性があるため謝罪は難しいだろうが、もう少し核を使用する側の責任に言及しても良かったのでは?たとえ善を追求する行為であったとしても、核を使用する側も苦しみから逃れることは出来ない。それ故にそもそもそうした状況に陥らないように一人ひとりが行動するべきだ的な。何故か良く分からないが、謝罪的な表現が無かったことで現在の米国はそこまで強くないのかなという印象を受けてしまった。

 

米国大統領が広島を訪れるという行為はそれだけで歴史を変えるインパクトがあるはずだった。ただ今回の訪問は実際のところわたくしたちの世界に平和や安全保障上の確実性にそこまで貢献しないと思った。

米国大統領はTVショーの司会ではないが、レトリックを駆使する仕事でもないと思う。具体的に世界をもっと良くして欲しい。

例えば、米国大統領の長崎訪問や8/6の広島訪問などの定期的訪問化に加え中国/ロシア/イスラエル/インド/パキスタン等のリーダーの個別乃至同時訪問の実現されると世界の安全保障上の不確実性が大幅に逓減すると思う。ただ、そのレベルの政治イベントは既に考慮されていると思うので、他にも庶民レベルでは想像も付かないような行政を期待したい。

この訪問を、核問題に敏感な米国人男性の核問題に関する素晴らしい散文の発表会にするか、人類の安全保障上の不確実性の大幅な減少の端緒にするかの未来を、選択できるのは誰なのだろう。

 

 

最近の書店に関する雑感

私は年間に80~100万円程度新刊書籍を買っているが、書店に関して思ったことをつらつらと書いてみよう。

 

まず一番好きな書店は、京橋の八重洲ブックセンターである。

毎月月初にここに行き、エレベーターで8Fに行き1階ずつ下りながら本をカゴに入れていくのが習慣になっている。検索システムはお粗末だけれども、書籍の探索のしやすさを感じる、もしくは自分の思考回路にこの書店の棚の並び方が合致しているのかもしれない。それ以外にも、途中で席に座って窓の外を見ながら休憩できたり、文房具も意外に揃っていたり、ブックカバーが素敵だったり、そもそも自社ビル?である気概が好きだ。

ここに行って無かった本を他の書店で探す。日本橋丸善や神保町の東京堂や新宿のブックファーストとかで。それでも無かったら、もしくはそんなに書店に行く時間が無かったらamazonのボタンを押す。amazonのカゴに入っていてボタンを押せば数時間以内に届くのに、わざわざ電車賃を払って八重洲ブックセンターに行っている。

 

先ほどの探索のしやすさとも関連するが、30冊欲しいとして、18冊ぐらいしか店頭に無くても、それらを探している間に25冊ぐらい追加で新しく欲しい本が増える。それが楽しい。

 

ただ、検索システムはとても使いにくい。検索条件の詳細指定が出来なかったり、置いてある棚の位置が曖昧すぎたり、そもそもUIがどうなのかなと思う。多分2gram。lucene 6の時代なのだからもっといろいろ検索させて欲しい。以前、本の位置が分からなくて店員さんに聞いたら、凄く必死に探してくれた。そういう本への愛?みたいのも好きだった。ただ検索システムの高性能化の方がうれしいかな。現段階では検索システムは新宿のブックファーストが一番良いように思う。

 

八重洲ブックセンターは意外に冊数が少ない気がする。amazonのリストにある本の消化率はいつも50~70%前後だ。かと言ってスペースもあまり無いのでしょうがないのだろうか。レジはもう少し減らせるかな。逆にピアノとかを置いて欲しい。この書店の良い所は、読書人の余裕みたいのが垣間みられるところなのではないかなと思うので。

冊数がより多いその他の書店は何故か歩きにくかったり、書棚の内容がわかりづらかったり、人が多すぎたりして探しづらずらかったりする。あと、過剰にオシャレな書店も探索しづらいし、発見も少ないように思う。以前台北の誠品書店に行ったら凄くオシャレな雰囲気だけれども、逆に本を探しづらいような気がした(あと本の紙の質もあまり良くない?)。八重洲ブックセンターは今のような不思議な探索容易性を今後も維持して欲しい。

 

最近はどの本がどこにあるかとか、検索システム上は在庫なしと表示されているが文庫の棚に行けばあるかもしれないとか、その辺の勘が働くようになっている。だからこそ、最近本棚の大幅な並び替えが合った時は少し残念だった。こういうのは前もって言って欲しいし、詳細図を紙にでも印刷しておいて欲しい。その辺の洗練さが少し足りないかなと思った。ちなみに、一覧性等の観点から今の方が良いという実感は無い。

フロアごとに担当者が明確になっても良いかなと思う。書籍のソムリエみたいな人が居ると有り難い。

amazonのレコメンドシステムも必ずしも高性能ではない気がしている。勿論これがないと読書生活のクオリティーが大幅に下がることは間違いないのだが、異なる商品でも同じようなレコメンドであったりするのを感じる。カートに入っている商品へのレコメンドもユーザーごとに計算しているはずなのにそこまで意外性が無い。

 

外国に行って、大都市でも書店が意外に小さいことに驚くことがある。最近ではローマはとても小さかった。ロンドンとか北京はそこそこ大きかったかな。洋書とかも日本語訳の方が安かったり、原書が絶版になっていても翻訳版は買えたりするのは有り難い。日本語圏の出版コストの相対的安さは素晴らしい。それを支えている方々に感謝したい。

 

書店が良い街は良い街だと思っていた。特に古本屋が良い町は。最近は意外にパチンコ店のトイレも注目したほうが良い気がしている。いずれにせよ八重洲ブックセンターのトイレは残念だ。ここは今直ぐにでも改修した方が良い気がする。

 

ブックカバーは八重洲ブックセンター日本橋丸善が好きだ。その本が馴染んできたらブックカバーを外すという読書行為なのでブックカバーは必ず付けて欲しい。

新宿のブックファーストみたいに数千円以上のお買い上げでコーヒー券プレゼントみたいなことをしても良いのではと思う。なお八重洲ブックセンター備え付けの喫茶店ももう少し全体的なクオリティーが高くて良い気がする。昭和の純喫茶ぽい雰囲気は嫌いではないのだが。ちなみに、東京堂のカフェはまだ使ったことがない。

八重洲ブックセンターは夏に小さな線香花火大会とかしていて少し面白い。ピアノの演奏会とかもして欲しい。

 

新刊書店は不思議なもので、冊数が多くて会計金額が多ければ多いほど店員の態度が雑になる気がする。寧ろ今の出版不況ならば一人あたりの単価を高めるべきなのではないかなと思うのだが。私の周りにも完全amazon化している人も多いが、自分もそうなってしまうかもしれない。八重洲ブックセンターにはそこそこ満足出来ているが、冊数、探索容易性、トイレ、その他のサービスの継続的な改善を期待したい。

 

最近は御茶ノ水丸善に少し注目している。医学生が多いからかそういう方面の本が多い。やはり書店は少しだけ個性が合ったほうが良い。以下の記事。紀伊國屋新宿南店の洋書フロアは少しハイカラな雰囲気があったので分かる気がする。

www.itmedia.co.jp

 

ボタンを押せばamazonから数時間以内に全ての本が届くのに、全ての本が入手できないのにわざわざ書店に行き本を買う。その曖昧なところに読書文化があるのだと思う。

 

時代の移り変わりと持続可能性

家の近くに都内では結構有名なカフェブームの発端となったらしいおしゃれ系カフェがある。

最初はそんなこと知らなくて、引っ越ししたころに散歩がてら入って結構良いなと思って、これからの生活で結構行くことになるのかなと思ったけれども、結局ほとんど行っていない。

根本的な理由は、「食の安全性」だと思う。レジで会計するときに、ブラジル産の鶏肉とかその他良く分からない国の安そうな食材が積み上がっているのを見た時に何ともいえない気持ちになったのを覚えている。

メニューもやたらと品数は多いんだけれども、各々のクオリティーは中途半端で低い。塩ラーメンも醤油ラーメンもとんこつラーメンも食べれる「客居ない系」のお店みたいな感じ。多分、安い原材料だからこそとにかくたくさんいろいろ作っている感じなのかな。

15年ぐらい前の当時は結構最先端だったらしいし、パッと見た感じのデザインとかも当初はカッコ良いかなと思ったけれでも、何かすぐ飽きてしまった。まあ、その辺のデザインの好みは置いといて、このお店に対する違和感を探っていくと「食の安全性」とかもカッコ良さの構成するようになってきているのではないかと思う。

海外とか行くと訳の分からないバックパッカーとかが訳の分からないマリファナみたいのを吸ってたりするけれども、「食の安全性」という観点からすると結構ダサイなって思う。良くそんな何が入っているのか、本当にマリファナなのかもわからない、得体のしれないモノを身体に入れられるな、みたいな感じで。

そういう意味でこのお店に対してカッコ良いなって当時の人が思っていたみたいに思えていない。

 

建築は時代精神を表すとかいうけれど、その当時かもう少し前のバブルころの賃貸物件とか行くと、外見は凄く豪華に見えるけれども、部屋のクオリティーは低いなと思うことがある。個人的には部屋のクオリティーを最大限にして、寧ろ外見には無駄なお金掛けなくても良いと思う。訳のわからない見栄とかより、生活の具体的なクオリティーの方が大事っていう意味で。

ただ、何だかんだ言ってこのお店も未だにそこそこ繁盛しているみたいだし、時代の移り変わりというよりは単なる主観的な意見なのかな。その辺はあと数年してもこのお店があるかないかできっと分かるのだろう。

まあ、maxとか見てると「ダサカッコ良い」みたいなジャンルもありそうだし。

MAX / ニューシングル「Tacata'」MV - YouTube

 

いずれにせよ、もしこのお店が無くなっていたら、きっと本当のカッコ良さは「持続可能性」なんだよって言うことなのだと思う。

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